気付けば9月です。気付かなければ8月32日だったかも知れないのに、と、暦の隙間に思いを馳せる振りをする9月の初日。
別に幻覚剤とかは使ってねぇです。はい。
User Style Sheets を用いる場合、!important
を用いて中途半端な設定で web site 側 Styel Sheets を上書きすると問題が起こる場合が有ると言う事は知られていても、何故か!important
を用いない場合、立場が逆転して中途半端な web site 側 Style Sheets が (全く過不足の無い) User Style Sheets を上書きし、問題を起こす場合が有ると言う事はあまり知られていないのが不思議。
まぁ、なんでもかんでも書けば良かろう、と言う姿勢をとると場合によって User Agent 側の思わぬ bug を誘発する場合も有るのですが、少なくともDefault 値を含む特定の値でなければならない場合は記述しない事によってではなく、記述する事によって値を明示的に確定させないと不味いよね、と言う事で。
とか偉そうな事をほざきつつ久しぶりに css-validator で拙作 CSS をチェックしてみたら、error だらけでした。慌てて修正。
とあるサイトで好ましくない title 要素の内容を見かけたので覚書。
Authors should use the TITLE element to identify the contents of a document. Since users often consult documents out of context, authors should provide context-rich titles. Thus, instead of a title such as "Introduction", which doesn't provide much contextual background, authors should supply a title such as "Introduction to Medieval Bee-Keeping" instead.
例えばろばQ屋本舗の内容ならトップページ、日記、更新履歴なんて抽象的な title 要素の内容は好ましくなく、それぞれろばQ屋本舗トップページ、ろばQの日記、更新履歴(ろばQ屋本舗)の方が良いですよ、と。
この場合、そもそもろばQを知らない人にはろばQの日記とか言われても結局訳が解らないので、安直にとりあえず接頭辞として名前つけりゃ良いだろうって訳には行かない訳ですが、しかし、今度はコンピュータとか漫画とかゲームとか映画が好きなろばQが不定期に書き綴った日記とかにすると、今度はろばQを全く知らない人でも何となく内容が想像出来るようになる一方でtitle と言うより description な訳で。
なお、ろばQの場合 (つまり私見) は Web SiteHTML 文書を一冊の本に例えた場合、title は本棚に並んだ状態で読める背表紙的役割、meta 要素の description は帯、裏表紙、或いは表2 (表紙の折り返し) 辺りの要約 (または推薦文) として機能するように心がけていますのでご参考までに (完全に正しくはないかもしれませんが、大間違いでもない……つもり)。
場合によって web site = HTML 文書だったり、web site ⊂ HTML 文書だったり、Web Site ⊃ HTML 文書だったりする訳ですが、HTML文書の命名規則の場合はWeb Site ≠ HTML 文書。
Web Site を一冊の本に例えた場合、title は本棚に並んだ状態で読める背表紙的役割。title要素について適切な例えだと思ったけれども、Web Site を一冊の本に例えるというか、HTML文書を一冊の本に例えているのではないだろうか。
全く持ってその通りなので訂正。
森博嗣最新作四季 春 (森博嗣)を購入。勿論、あの天才のお話です (と思う。まだ読んでないけど)。
09月04日付でむぅちゃんが、6代目河留に就任 (超私信)。これにより、むぅ、ろばQの2頭体制に (大丈夫なのか? 頭とか)。
自分が評価の対象となる場合、過大評価されるより、過小評価されたほうが良い。特に評価者が自身の場合は。
最初に結論を述べてしまうと、古林氏はシンプルで、かつ人間が見て分かりやすいソースを記述するためならば
としてXHTML 2.0 の私案……見出しとセクションを書いているのに対し、以下のろばQはapplication/xmlとしてUAに伝われば、人間の可読性はあまり重要ではなく、そこに拘りたい人はコメント文やインデントで勝手に拘れば良いと思っている、と言う事 (勿論程度の問題です)。また、古林氏が h 要素がどの見出しレベルなのか、その section 要素がどの階層に属するのかを、すぐには理解出来ません。
と言う事を問題にしているのに対し、ろばQは範囲とそれぞれの親子関係が解れば階層の深さはどうでもいいと思っていると言う事。この為、意見の相違がある。
と言う訳で、ろばQがXHTML2.0のコードの人間への可読性の重要性や、何階層目かを知らせる情報の重要性を認識すればこの文章は撤回、或いは大幅な修正が成されるかも知れない (弱腰)。
その
h
要素がどの見出しレベルなのか、そのsection
要素がどの階層に属するのかを、すぐには理解出来ません。section
要素の入れ子を遡れば理解出来ますが、人間の目には非常に構造が分かりにくいものとなります (字下げをうまく使えば、少しは分かりやすくなるでしょうが)。
UA 向けであれば、section 要素のネストで十分であり、文書の階層化の厳密化は添え字を必要とせず達成出来ると思うし (ただし、後述する section 要素の内容の厳密化が行われるべきであろう、と言う点に関しては同意)、人間相手の情報であれば<h>(見出しの内容)</h><!-- LEVEL 1 -->
とでもすればよいと思う。
特に、人間に対する配慮は application/xmlたる XHTML (つまりtext/htmlではないということ) でわざわざ code に含める理由が見当たらないように思われる (くどいですが、勿論程度の問題。例えば、UAには解るから、と要素名をa-zで1文字づつ順次割り振ったりする事を是認する気は無い)。
逆にろばQは、section 及び h 要素に添え字をつける事に寧ろ反対である。例えば DOM などにより、あるXHTML文書の任意の場所にsection或いはh要素を挿入する時、挿入場所の階層を一旦探査せねばならなくなるからで、文書が section 要素で明示されたブロック単位で階層を意識せず切り張り出来る (そのためには当然 seciton 要素に内包される、見出しを含むあらゆる要素から階層を示す添え字をなくす必要が有る) ようになれば、複数の文書を1つの文書に、或いはその逆の作業が今以上に容易になり、それは XML の長所を延ばす方向で添え字をつける以上の利点をもたらすと考える。
section
という長い名前は、マーク附けを煩しくします。
そう感じた事は無いが、短くする事自体に特に反対も無い。
無理やり付け加えるなら、ISO-HTML が div1-6 を b1-6 としなかったのと同じ理由で s1-6 は sec1-6 にしたほうが良さそうだ、と思ったが、まぁ、(XHTML2.0を使おうと言う人に対しては些か杞憂が過ぎると言う物であり) 瑣末ではある。
現行のドラフトでは、
section
要素にh
要素が必ず入っていなければならないという記述がありません。
各文書単位 (section 要素相当) は必ず見出しを含んでいる必要が有るのか無いのか、はろばQは良く解りませんが、内容をもっと厳密に定義する必要が有る点には同意。
ろばQなら body の内容を (section)+
とし (h1相当の見出しが複数有るかもしれない)、section の内容を ((h)?, (section | %Block.mix;)+)
とする (見出しのない文書はあるかもしれない。しかし、内容の無い文書の存在は理解出来ない)。
勿論上記はろばQの個人的な案であって、そうでない考えの人も要るでしょうし、また、ろばQは自分の案以外を否定する気も無い。ただし、複数の案が余りに自由に共存しすぎると現在のHTMLが抱える文書構造の不確定さの問題をXHTML2.0に持ち越す事になりかねず、ろばQはその点を最も懸念する。
最近、ラーゼフォンをレンタルビデオで見始めまして、昨日徹夜して一気に11話観て全26話を鑑賞終了。非常に悪い例えですが、ドラゴンクエストしかコンピュータRPGをやった事が無い人が初めてファイナルファンタジーで遊んだ時にドラクエじゃんと思うであろう程度にエヴァンゲリオンじゃんと言う感想。
念の為に書いておくと面白かったです (詰まらなかったら徹夜して観ない)。
久しぶりに FINAL FANTASY Ⅺ をプレイ。Phoenix サーバでは3ヶ月前40万ギルしていたリフレシュ (MP回復魔法 (時間リソースを効率よく MP に変換)) が10万ギルに値下がりしていたので購入 (参考: ろばQのキャラクタだと3000[ギル/時間] 位稼げる)。
高い買い物もした事だし、あまり長時間やる気も起きなかったの金庫の中のアイテムを競売に出してから LinkShell (ゲーム内のサークル) の方々に挨拶をして終了。
まんまとトリックに引っかかったので再読中。しかし、ファンサーヴィス度が高いなぁ! あんな人やこんな人が出てきたり、更にはあの人も初登場? (種明かしになるのでコメント化)
逆に言うと今までのシリーズ S & M と V シリーズを読んでいないと面白くないかも。ファンなら買い。
(完全に個人の好みの問題として) 仕事の都合上、丸一日 Windows XP を Luna (Windows XP 標準テーマ) で使用。イライラする。
日本語は……、他言語がどうなっているか残念ながらろばQは知らないが、少なくとも日本語には少なからず同音異義語が存在する。
例えば、きくと言う音に対して、聞く、聴く、訊く、効く、利くなどがあり、非常に乱暴且つ大雑把に聞、聴、訊と、効、利をそれぞれ一纏めにしてしまってもなお、2つの意味が存在する (更に、現在マイナな表現になりつつ有るが、お酒やお香の場合の聞くを加えれば3つ)。
これは果たして、元々日本語がこれらの概念を一纏めにした大らかな意味しかなかった時に漢字にであって言語が先で細分化され、音が取り残されたのか、或いは元々発音は強弱や音の高低などでこれらを区別していたが文字を割り当てるときにそれらの情報が失われる為異なる漢字が (中国語に沿って) 割り当てられたのか、はたまた、元々異なる音だった言葉が何らかの理由によって一つの音なったのか。
やっぱ、いい大人がネットゲームなんかに本気出すべきじゃない。
元記事はたましいがふるえるうたがあるから 09月22日版。この日記見ている田園都市線沿線住民の反応希望 (いる?)
と言う事なので反応をば。
田園都市線沿線はかつて第四の山の手次代の生活様式を先取りする街とはやされた。いわば中産階級の多い路線だ。一方、東武線沿いは根っからの下町の連なりである。原さんは車内広告にも非対称を見いだす。前者はファッション誌や受験塾のそれ。後者は債務整理を請け負う法律事務所や、演歌ショーで売る健康ランド……。
そこで急行南栗橋ゆき (東武線内は区間準急) に乗ってみた。中央林間駅から埼玉県北部の終点まで約二時間半の旅。やはり違和感はぬぐえなかった。東武側には行き止まりの浅草を脱して都心・渋谷に直結する悲願の達成があったが、東急は何を得たのかと考え込んだ。
はいはいはいはいはい、せんせーはい、せんせーはい。僕ちゃん様は三軒茶屋を最寄駅としてる都民の田園都市線沿線住民ですけど、目的地まで直ぐ着くので、広告とか暢気に読んでる時間ありません (いま、物凄い数の人を敵に回した気が……)。
と言う風に、田園都市線沿線はかつて第四の山の手、次代の生活様式を先取りする街とはやされた。いわば中産階級の多い路線だ。一方、東武線沿いは根っからの下町の連なりである
だなんて、他人見下して読者を持ち上げる芸風は、結局更のに上からの嘲笑しか誘わないよ、などと偉そうにのたまうろばQの立場は親の家の居候なんですが、それは置いて置くとして (良いのか、置いて置いて……)、こんな見え透いた持ち上げ方なんかされて、神奈川新聞の読者は寧ろ馬鹿にされた、と怒りはしないだろうか。そもそも持ち上げ方も微妙でかつて
、はやされた
と、過去形だし……。
まぁ、記事自体は東武側には行き止まりの浅草を脱して都心・渋谷に直結する悲願の達成があったが、東急は何を得たのかと考え込んだ
などと唐突に記者が遠まわしに私は馬鹿ですと告白し始めるような電波記事なので笑い飛ばして終わりにするとして、ろばQは、乗り入れ以前から存在した前者はファッション誌や受験塾のそれ。後者は債務整理を請け負う法律事務所や、演歌ショーで売る健康ランド
の両者どちらにも属さない中年男性向け雑誌の広告を本気でどうにかして欲しい (少なくとも田園都市線の中吊りでは探さなくても頻繁にみる事が出来ます)。
と言うか、あらゆる公共の乗り物はついに脱いだとか濃厚○○とか放送禁止用語ではないだけの卑猥な18禁丸出しの広告を掲載するな。それが出来ないなら通学用定期券の販売を辞めろ。両方とも無理なら、せめて小学生前後の年齢を見込んだスタンプラリィの開催期間中だけでも辞めれ。
Naminchichiさんが要約したものはNaminchichiさん自身の著作物ですから、blockquote要素ではありません。
ここでそふぃあさんが仰っている要約したもの
は同一性の保持も何もない、新しい文章なので、素人目にも引用ではないと判断出来るのですが、それはそれとして引用文を読んでおりましたら自分の著作物を引用する事は可能なのかと言う疑問が浮かんで参りました。ろばQは自分の文章を他の箇所に (同一性の保持、文章の主従関係などの引用の要件を満たした上で) 転載する場合、blockquote 或いは q で markup しているのですが、果たしてこれは正当なんでしょうか。
なお、ろばQが気にしているのは、法的判断ではなく HTML 4.01 における要素として自分の著作物がblockquote要素或いはq要素と成り得るかどうかなんですが、HTML 4.01 の使用を読む限りでは、その内容の定義はquoted text
であり、単に引用。するとやはり引用を定義する著作権法の文面に依存しそう (但し、特定の国家における著作権法の引用と HTML の仕様の引用が必ずしも合致するとは限らないが) ですが、ろばQが読んだ限りでは日本の著作権法には引用が他人の著作物に限られるかどうかの記述は特に見当たらず (本人なら転載も改変も出来る訳で、自分の著作を引用すると言う発想自体がナンセンスなんですが)。
自分の著作物を引用出来ない場合はblockquoteやqは間違いになるのに対し、仮に出来たとしても自分の著作物なら転載も可能なのだから、確信が持てない場合はとりあえず class="reproduce"
とでもしておくのが安全かとは思うものの、この場合 (blockquoteやqのcite属性相当の) 初出の URI はどう表現するべきかと言う問題が新たに浮上。q 要素相当なら a 要素 + href 属性でHyperLinkを張るとして、blockquote要素相当の場合、やはり転載範囲を div で示した上で、人間向けの (引用時のcite要素相当の) 初出を記述した文字列とHyperLinkで示すのが妥当か。